聖護院周辺には錦林小学校や京都市バス錦林車庫など錦林(きんりん)という地名が残ります。
明治までは聖護院の西側に聖護院村があり、鴨川にかけてうっそうとした「聖護院の森」が広がっていました。
この森の紅葉は錦の織物のように美しいため「錦林」と呼ばれました。
また、その美しい森の中にある御殿であることから、聖護院は別名「森御殿」とも呼ばれていました。
今でも周辺地域では聖護院のことを御殿と呼び、当時の名残をとどめます。
1734年11月16日、この森で呉服商の井筒屋伝兵衛23歳と、先斗町近江屋の遊女、お俊20才の心中がありました。
今でもお俊と伝兵衛の供養塔が聖護院塔頭の積善院境内にのこります。
浄瑠璃作家の近松半二は、この事件をまとめ、「近頃河原達引」という作品、いわゆる「お俊・伝兵衛」を発表、現在も時折上演されています。